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そのお客様と最初にお目にかかったときの第一声は、「兄さん、これ何に使うんや？」でした。
指差されたその先にあったのは、酒器揃えの「月と菊」です。
「これは片口と言いまして、酒瓶からお酒をこの器に注いで……」と説明を始めた私（十代目・田谷昂大）を、不審そうに見つめていらしたことを思い出します。
「瓶からそのまま器に注いでも一緒やろ！」と言われたときは、何と返答したらよいのか思わず黙ってしまいましたが、そのあと「月と菊」をご購入くださったので「ご納得いただけたのだろう」と、ひとまず安心しておりました。

１年後、そのお客様に百貨店の催事で再会した折には、私の顔を覚えておられて、開口一番「兄さん、やっぱり片口ないとだめだなぁ。瓶から器に注ぐのと、一度片口に入れてから器に注ぐのとでは全然違うよ、味も雰囲気も」と、力説してくださったのには感激しました。
お隣で微笑む奥様から、ご主人が周囲の方々にも片口の魅力を語られているとお聞きし、輪島塗にたずさわる仕事について良かったなあと、と実感しました。
酒器揃え「月と菊」は、塗師屋（ぬしや）の私にとっても、思い入れの深い器です。

酒器揃え「月と菊」には職人の手により、輪島塗の誇る沈金「彫り詰め（ほりづめ　※沈金ノミを用いて、一彫りずつ模様を彫り込む技法）」で、細やかな菊の文様をほどこしてあります。
「重陽の節句」に延命長寿の霊草・薬草である菊を浮かべたお酒を酌み交わし、長寿や無病息災を願う風習にちなみ「月を愛でながらお酒を飲む」をテーマに作りました。

加飾はあえて全面に入れずに余白を残し、お盆には三日月、器には満月をイメージした沈金を、部分的に彫りこんであります。これにより漆黒の夜空を思わす塗面には鏡面効果が生まれ、お酒を酌み交わす方々や周囲の景色が、おぼろに映り込むようになっています。
菊の文様で月を表す、繊細な沈金細工と黒色漆の相乗効果で、器全体にしっとりとした風情の漂う仕上がりとなりました。

酒器揃えのテーマである菊は、日本人には慶弔の際に用いられる馴染み深い花です。私たちに寄り添い、出逢いと別れのシチュエーションに登場する菊と、夜ごと形を変える月の組み合わせは、諸行無常の精神の表れのようにも思えるのでしょうか。手にするひとの、心の奥深くの感情を動かすようです。

酒器揃え「菊と月」を、お気に召されてご購入くださるお客さまは、圧倒的にご夫婦が多いです。その方たちの人生の節目である、紙婚式、錫婚式、銀婚式などを祝う瞬間に、この酒器揃えが立ち会っていると思うと、大きな喜びです。

もっとも、人生には晴れの日ばかりではなく、厚い雲に覆われる日もありますし、空を見上げて月を眺める余裕なく、目の前のことだけで精一杯の時期もあるでしょう。
それでも、ふとしたときに、この器でお酒を酌み交わしたことを思い出していただけたらと願うのです。

暖かい時期には庭に出て、片口のなかの冷酒の香りが開くのを感じたり、雪のちらつく季節には、熱燗を入れた器に顔を近づけて湯気の温もりを感じたり。
2人でお酒を傾けながらそうこうするうちに、気持ちが明るくなっている。
酒器揃え「菊と月」は、いつでも主のお役にたてる機会を待っています。

早いものでもうすぐ、恒例の催事が行われる季節になります。
今年はあのご夫婦から、どんな近況報告を聞かせていただけるのか、今から楽しみです。